東京高等裁判所 昭和41年(う)1859号 判決 1967年2月14日
被告人 須永重夫
主文
原判決を破棄する。
被告人を罰金一〇、〇〇〇円に処する。
若し、右罰金を完納することができないときは、金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
原審並に当審訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、原審検察官江幡修三提出の控訴趣意書記載のとおりであるから、これをここに引用し、これに対し次のとおり判断する。
所論によると、本件公訴事実は「被告人は自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四〇年七月二日普通乗用自動車を運転し、品川区大井一丁目二番地先道路において後退しようとしたが、後退の合図をし自車の左右後方を注視して安全を確認しつゝ後退すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、その合図をせず、左後方を注視したのみで右後方の安全を確認することなく後退した過失により、自車の右側後方に佇立していた針木京子に自車右側後部を衝突させ、よつて同女に加療約二週間を要する左足根部挫傷並にアキレス腱損傷の傷害を負わせたものである。」と謂うにあるところ、原判決は、被害者鈴木京子は国電大井町駅前広場で自分の乗つてきた自動車ライトバンから下車し、その側に立つて車中の者と二、三の会話を交した後、不用意にも後退したため、後退してきた被告人の自動車と接触したものであつて、過失責任は寧ろ被害者側にあり、本件の場合、仮りに、被告人が後退の合図をしなかつたとしても、車道の中に立つている成人である被害者が盲目的に後退りすることは常識的に考えられないから、被告人が後退の合図をしなかつた点に過失責任を認めるのは適当である。又、被告人が自車を後退させるに当り、右後方に対する安全確認の注意義務を怠つたものとも言えないと判断し、結局、被告人の過失は立証できないとして無罪の言渡しをしたものであるが、右は事実を誤認した違法があると主張する。
そこで、先ず、被告人が本件自動車を後退させるに当つて運転者としての注意義務を果したか否かの点につき本件記録を精査して勘案するに、元来、自動車は道路上において前進するのが普通で、構造上もそのように出来ており、後退するのは特別の必要のある場合に限られるものであるから、道路上にある歩行者、佇立者、或は自動車運転者は前方に停車中の自動車が突如後退してくることは通常予想しないものである。それだから、自動車運転者が道路上で自動車を後退させるに当つては、前進させる場合に比し更に格段と後方の安全確認に意を用いるべき業務上の注意義務があると謂わなければならない。
本件についてこれを見るに、被告人の検察官に対する供述調書によると、被告人は被害者針木京子が停車中のライトバンの左側に立つて車内の運転手と立ち話をしていたのを目撃し乍らそのすぐ後方を数米前進して、一旦停止し、そして直ちに再び後退して来たのであるから、同女の直後を通つて後退するに当つては、同女が立話を終わり或は被告人の自動車の通過に驚いて体を移動させることのあることを当然予想すべきであるから、警音器を鳴らす等して同女の注意を喚起し、なお、絶えず同女の動静を注視しながら徐行しつゝ後退すべき業務上の注意義務があるものと解する。原判決はクラクシヨンを鳴らすことは道路交通法の定める後退の合図にはならないと判示するけれども、同法第五三条第一項同法施行令第二一条の定める後退の合図は自動車運転法規を学習した自動車運転者にとつては有効な合図であつても、これに無関心な一般歩行者や佇立者等には必ずしも有効な合図とはならない。およそ、自動車運転者は通常可能なあらゆる方法を以て事故発生の防止に努むべき業務上の注意義務を有するものであるから、本件のような場合、佇立者に注意を与えるためには警音器を鳴らすのが最も効果ある方法であつて、道路交通法の規定も斯る警音器の使用を禁ずる趣旨とは解せられない。
ところで、原審証人針木京子、同針木秀智の各証言、被告人の検察官に対する供述調書によると、被告人は後退するに際し警音器を鳴らさず、左後方にのみ注意を奪われ、右後方の安全確認をなおざりにしたことが認められるから(被告人の原審公判廷における後退に際し警音器を鳴らした旨の供述は右各証拠に照して当裁判所は信用しない。)、この点で被告人の業務上の過失責任は免かれない。原判決は単なる後退の際などには警音器を鳴らすことは許されず、殊に、本件の場合車道に佇立する成人が盲目的に後退りすることは常識上予測できないから、被告人が警音器を鳴らさなかつた点に過失を認めることはできないと判示するけれども、右は独自の見解であり到底認容することを得ない。
次に、原判決は被害者はライトバンから下車しその車外に佇立して運転席の弟及び後部座席の姪に対し別れの挨拶を交し、ライトバンが動き出そうとしたので一、二歩身を引いた瞬間、後に引いた左足の踵が後退してきた被告人の自動車の右後輪のタイヤに噛まれたと認定し、過失は寧ろ被害者側にのみ存する如く断定しているけれども、被害者針木京子が一、二歩後退したとの点は原審証人針木京子、同針木秀智のいずれもこれを否定するところであるのみならず、他に記録上これを確認すべき証拠は存しない。只、被害者が若し直立不動の姿勢で立つていたとしたら、原判決の言うとおり被害者の体の他の部分に自動車の泥除けバンバー等が接触することなしに踵だけがターヤーに噛まれるのは不自然であるが、両脚を前後、(片足を後方に引くようにして佇立する場合)或は左右に開いて立つていた場合には、そのままの姿勢で片方の踵だけがタイヤーに噛まれることは可能であると考えられるし、当審検証の際に被害者針木京子は小児麻痺の結果、右足が奇形で彎曲し、直立不動の姿勢をとることが困難な状況が認められたので、同女については右のような結果の発生は十分考えられるところであり、左足踵だけがタイヤーに噛まれたことを以て被害者が一、二歩後退りしたと断定することは相当でない。なお、仮りに、被害者が一、二歩後退りしたとしても、そのようなことは前記のとおり十分予測すべき事態である。要するに右両証人の証言及び被告人の検察官に対する供述調書原審検証の結果によれば、被告人が被害者針木京子に、自己運転の自動車を後退させつつあるということの注意を喚起さすに適切な合図をなさず、かつ左後方のみに気を奪われて、右後方の安全を確認することを怠つた被告人の過失に基因するものであつて、自動車運転者としての業務上必要な注意義務を怠つたものと認めるべきものである。
なお、原判決も認めるように駐車禁止の場所で、自ら危険な車道の真只中で自動車から降り、極短時間とはいえ佇立立話をし、被告人運転の車に十分注意を払わなかつたことには被害者にも不注意の責ありとするも、これあるかというて被告人の業務上過失責任を排斥し去ることはできない。
結局、原判決は証拠の取捨判断を誤り事実を誤認し、且つ、自動車運転上の注意義務の存否につき法令の解釈を誤つた違法があり、その結果は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は破棄を免かれない。
よつて、刑事訴訟法第三九七条第一項第三八二条第三八〇条第四〇〇条但書に則り原判決を破棄し、当裁判所において自から次のとおり判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は自動車運転の業務に従事していたものであるが、昭和四〇年七月二日午前七時五〇分頃タクシーを運転し東京都品川区大井一丁目二番地先の国鉄大井町駅前広場に至り、一旦停車した後、後退しようとしたが、自車の右側後方には一台のライトバン自動車が同方向に向つて停車し、その左側に針木京子(当二九年)が佇立して運転者と立話しをしていたから、自動車運転者たるものは警音器を鳴らす等して後退の合図をし、佇立者の注意を喚起すると共に、後方を注視してその動静に注意し安全を確認しつゝ後退すべき業務上の注意義務があるに拘わらず、これを怠り、合図をせず左後方の安全のみ気を奪われ右後方の安全を確認することなく後退した過失により、同女の左踵附近を自車右後部車輪で轢き、これに加療約二週間を要する左足根部挫傷並にアキレス腱損傷の傷害を与えたものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
法律に照らすと、被告人の所為は刑法第二一一条前段罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するところ、本件においては被害者が車道に佇立していたものである点、負傷も比較的軽徴であつた点等に鑑み、所定刑中罰金刑を選択し、その所定金額の範囲内で被告人を罰金一〇、〇〇〇円に処し、若し、被告人が右罰金を完納できないときは刑法第一八条に則り金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、原審並に当審訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用し、全部被告人の負担とする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 石井文治 目黒太郎 渡辺達夫)